カゼトツチの「想い」/見据える社会

 地方創生を掲げる政府、その流れを汲む地方自治体。地域の活性化の重要性は、今日、誰もが疑うことはないでしょう。しかし、地域の現場から聞こえてくるのは、「人材が足りない」「若者がいない」「予算がない」等々の「◯◯がない」という嘆きの声です。

 本当にそうでしょうか。

私たちカゼトツチは、誰かに頼るのではなく、暮らす地域を自分たちの手で作っていこうとする人たちの足音を感じています。 それは、暮らす地域の歴史や文化が醸し出す空気=風土を感じ、“日常”を豊かにしている人たちの萌芽に他なりません。

それらの芽を育むために、カゼトツチは、地域に対し潜在的にでも関心のある人たちの意欲を顕在化し、実際に活動する担い手を「増やす」こと、活動拠点/場を「つくり」、 それらを「掛けあわせ」、その多様性を「活かす」ための制度システムを「整える」ことを、活動の目標に掲げることしました。

 

 20世紀のフランス現代哲学をリードしたドゥルーズ&ガタリは、幹から枝へとあらゆることが浸透していくような―中央から地方へと一定の方向性が伝播していく現代社会のあり様を「ツリー(樹木)」の論理と例え、それを批判的に捉えました。それは確かに秩序立っているけれども、その実は、成功事例の模倣、すなわち「同じもの」を再生産することでしかないと考えたためです。

一方で、彼らが可能性を見出したのは、樹木を支えるその地下のうごめきです。

なぜならば、確かにその地平は安定しているように見えても、その地下、あるいは下層部では地下茎が絡み合い、強く根を張り、常に動きを止めることはないためです。そして、その地下茎の伸縮運動が地平を突き動かすような潜勢力を有していると捉えたのです。

彼らはそれを「リゾーム(地下茎)」と呼び、その論理にもとづく社会は、オリジナルの「模倣」あるいは「複写」「複製」にとどまることなく、常に生成変化しながら、新たな「地図」を描くことである点にその特徴を抽出しました。

つまり彼らは、既存の社会を突き動かす新たな動きが、樹木の論理には回収されない、予測不能な「欲望」からしか生まれないことを予見していたのです。それは、彼らのその著書『リゾーム…序』(1976年→1987年、朝日出版社)の中で記した「リゾームがふさがれ、樹木化されてしまったら、もうおしまいだ。もはや何一つとして欲望から出てきやしない。なぜなら欲望が動きまわり産み出すのはつねにリゾームを通してなんだから」という力強い言明からも読み取ることができます。

 

 この「リゾーム」という概念の本質と、カゼトツチの「想い」は共鳴しています。それは、カゼトツチ自体、地域活動の実践者、開発途上国の現場で活動する開発ワーカー、企業で働きながら地域で新しいことをしたいと考える若者、地域での活動実践に関心を抱く研究者等々の多様な仲間―地域にとっての「風の人(よそ者)」「土の人(地元の人)」が集まり、言葉を交わす中で、前述の活動の目標にたどり着いたからです。

もっと言えば、その活動の原点を忘れずに、1人1人が見据える理想の多様性が、“日常”の「当たり前」を問い直し、その豊潤な可能性を切り拓く立脚点になると信じ、議論と行動を続けているためです。

地域の”日常“は、一見、白紙のように私たちの目に映るかもしれません。しかし、別の角度から照らしてみれば、“日常”を煌めかせる地域資源(未だ十分に認識されていない人や場所、営み等)が色鮮やかに浮かび上がってくる可能性も十分にあるはずです。

その可能性を地域に根づかせるため、私たちカゼトツチは、「地域の見え方を反転させる―化学反応をもたらす触媒となること」、「多様な歩みを進める人たちの交差点=拠点となること」を指針とし、地域の新たな「地図」を描いていきます。

 すべては、暮らす人たちの多彩な暮らしを支えること―“日常”を耕すことを目指して。